ポリティカル・コレクトネス、略してPCという言葉がある。
 人種差別・民族差別・宗教差別・性差別・身体障害者差別などを含まぬ「政治的に正しい」表現のことを言う。
 もともと、人種と民族のるつぼであるアメリカで始まった概念である。例えば、PCでは、

ポリスマン(警官)→ police officer マンは「男」で、男性中心主義だから
マンホール→ パーソンホール(personhole) マンは「男」で、男性中心主義だから
short(ちび)→“vertically challenged””垂直方向に試練を受けた人
blind(盲目の)→"optically challenged" 視的に試練を受けた人

と言い換えられる。
 日本でもそうだが、アメリカにも放送コード(放送禁止用語)が多く、それらの概念を言わねばならぬときは、PCの用語が使われる。
 こうした風潮を皮肉った『政治的に正しいおとぎ話』というパロディもある。
 例えば「白雪姫」の「七人の小人(こびと)」は、コビトという単語が差別的なため、「垂直方向にチャレンジされている七人の男」と言い換えられる。また「白雪姫」は、PCでは、「雪のように白い」という表現が有色人種差別を助長する危険な名前をもつ王女、となる。

 PCという観点から見ると、中国社会および中国語は、すさまじいほどの「後進国」である。
 まず、身体障害者(英語では「ハンディキャップを課せられた人々」もしくは「チャレンジされている=試練を課せられている人々」のことを、中国語ではズバリ「残疾人(ツァンジーレン)」と表現する。駅の切符売り場とか、エレベーターなど、あちこちに「残疾人」優先、という看板を見かける。
 また、日本やアメリカでは「めく○」「つ○ぼ」「お○」「きち○い」などの単語を避けるが、中国では、映画やテレビドラマでもそれらにあたる単語がポンポン出てくる。例えば、中国映画『紅いコーリャン』は、ハンセン病患者に対する偏見が向きだしなため、今日の日本では公開が難しい。
 中国の京劇の伝統演目でも、身障者が登場する作品が多い。

 中国人の名誉のためにつけ加えると、中国はPCの「後進国」ではあるが、身体障害者の社会参加という面では、むしろ日本やアメリカなどよりも進んだ面がある。聾唖者や身障者が集ったプロの劇団がいくつもあり、海外公演なども盛んに行っている。
 一昨日、中野区で行われた「中野区と北京市西城区の有効締結二十周年」の記念公演を、私も見に行った。中国側の出演者は聾学校の女性徒さんたちとか、中高年の身体障害者のかたが多かった(中野区側も、手話の歌などで応えた)。

 昔、北京大学に留学したとき、学内に松葉杖をついて歩く学生が多いので、驚いた記憶がある。筆者は最初、てっきり「天安門事件の被害者か?」と思ってしまったほどだった。あとできくと、北京大学をはじめ、中国の名門大学には、障害をもつ人を優先的に進学させる枠があるのだという。
 日本の名門大学には、スポーツ推薦の枠はあるけれども、ハンディキャップをもつ人々にチャンスを優先的に与える枠はあるのだろうか?

 中国映画『北京好日』も、退職して「サンデー毎日」になった老人たちと、若い障害者が、ごく自然に登場する。日本の映画やテレビドラマでは、原則として、障害者の役は健常者であるタレントが演ずる、という不文律がある。しかし中国の映画やドラマでは、本物の障害者が、障害者の役を演ずることが珍しくない。中国の視聴者も、それに違和感をもたない。
 中国人が、いまでもPCについて鈍感であるのは、身体障害者も、まわりの健常者も、あまり気にしないからかもしれない。

 もし「政治的に正しい京劇」を作るなら、どうなるか?
 例えば、京劇「孫悟空、十八羅漢と闘う」とか、京劇「打瓜園」は・・・

 人間は、生きているかぎり、必ず老いる。
 老いれば、手足は重くなる。目も耳も衰える。体もだんだん動かなくなる。
 坂や階段がきつくなる。若者の言葉が理解不能になる。・・・・・・
 この意味で、健常者と身体障害者の境界線は、私たちが漠然と思っているほど明確なものではあるまい。

 漢文には「伊尹(いいん)の土功」という言葉がある。
 漢文の古典『淮南子(えなんじ)』にいう──
 その昔、殷の湯王の宰相をつとめた伊尹が、土木工事を行った。
 すねが長い者には、足の力が強いのを利用して、スキをふませ、土を深く掘る仕事をさせた。
 背筋力が強い者には、土運びをさせた。
 「眇者(びょうしゃ)」には、片目をつむって測量の仕事をさせた。
 「傴者(おうしゃ)」には、背中を曲げて壁をぬる仕事をさせた。
 誰でも、自分の得意とするところがある。人間は平等なのである(各有所宜而人性斉矣)。

 漢文古典の「眇者(びょうしゃ)」「傴者(おうしゃ)」をPCで訳すと、それぞれ、「片方の目の焦点がチャレンジされている人」「生まれつき背骨の曲率においてチャレンジされている人」となるだろう。
 しかし、そのような枝葉末節のことは、どうでもよい。
 これからの日本は、老齢化社会になる。在日外国人もふえる。言葉や体力で、ハンデをもつ人々が増える。三千五百年前の「伊尹の土功」の故事を思い出す価値は、いまもあるだろう。

 加藤徹のHP http://www.geocities.jp/cato1963/