日本語の翻訳語は、往々にして、原語よりも正確である。例えば、「預言者」と「予言者」の書き分けもそうである。
 「予言者」も「預言者」も、英語ではプロフェットと言う。「英英辞典」を引くとわかるが、英語のプロフェットには、「予言者」と「預言者」の二つの意味がある。

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prophet noun
1. an authoritative person who divines the future
2. someone who speaks by divine inspiration; someone who is an interpreter of the will of God
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 日本語では、1の「将来を予知する、権威ある人物」の意味のときは「予言者」、2の「神の啓示によって語る人、神の意志を通訳する人」の意味のときは「預言者」と書き分ける。
 残念ながら、アルファベットしかない西洋人は、このような書き分けができない。そのため、日本語ほど明確に書き分けることができないのである。
 ただし西洋人も、聖書に出てくるプロフェットの本義が「神の代弁者=預言者」であり、「予言者」ではない、ということは理解している。

 英語の「prophet」の語源は、古代ギリシャ語の「プロフェーテース (προφήτης, Prophetes)」である。このギリシャの単語にも、すでに「預言者」と「予言者」の二つの意味があった。原義は「預言者」で、派生義は「予言者」である。
 古代ギリシャ語「プロフェーテース」の「プロ」は「代理に」を表す接頭辞であり、「プロフェーテース」の本義は「(神の)代弁者」=「神の言葉をあずかる者」=「預言者」の意味である。ただし、ギリシャ語(そして英語)のプロには「前に」という意味もあるため、「先に語る者」=「予言者」という俗解も生まれたらしい。
 『旧約聖書』の原語であるヘブライ語では、預言者を「ナービー (nabi)」と表記する。 その語源は不明だが、アッカド語で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味する語が語源、という説が有力である。つまり、聖書のオリジナルの原語でも「預言者」なのだ。
 以上の語源については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85#.E8.AA.9E.E6.BA.90
の知識の受け売りである。

 さて「預言者」の「預」という漢字であるが、これを「あずかる(あずける)」と読むのは国訓、すなわち日本語独特の用法である。中国の漢字「預」に「あずかる」という意味はない。
 中国では、「予」「預」「豫」は、互いの意味が大きく重なる語である(一人称の「予」を、「預」「豫」と書くことがない、などの用法の差がある)。「預」も「予」も、中国では「あらかじめ」という意味である。しかし「参予(参預)」=「参与」という用法もある。「参預」の「預」は、漢文訓読で「あずかる」(かかわる、の意)と読む。口語の「お金やモノをアズカル」と、漢文訓読の文語「あずかる」は、全く意味が違う。にもかかわらず、同じく「アズカル」という発音であるため、日本人は「預」という漢字に(日本語の口語的な意味での)「あずかる」という意味を付与するようになった。
 中国の漢字を絶対視する立場から見れば、これは誤用である。しかし、日本語の独自性を重視する立場から見れば、これは漢字の日本化の一例にすぎず、むしろ発展であるともいえる。

 清末の中国語訳聖書では、プロフェットを「預言者」と訳した。中国語では、日本語の「予言者」にあたる意味であった。日本語訳聖書でも、そのまま「預言者」という訳語を採用した。
 当初、日本人も「預言者」と「予言者」の二つの意味を、あまり区別しなかった。しかし1970年代ころから、新約聖書の原語であるギリシャ語のプロフェーテース(英語はプロフェット)に「神の代弁者」と「あらかじめ予言する者」の二つの異なった意味があることが、日本人の知識人のあいだでも、ようやく認識されるようになった。
 日本語の「預」の国訓がたまたま「あずかる」であったことから、日本では、「預言者」と「予言者」を書き分けて、意味をより明晰にすることにした。
 単語そのものを変えず、意味解釈を変えることで、事実上の改訳を行うこと。これを「解釈改訳」と呼ぶ。日本国憲法の条文を改変することなく、条文の解釈を変えてしまうことを「解釈改憲」と呼ぶが、それと同じことである。

 以上、なぜ「予言者」と「預言者」の区別について長々と書いたかというと、来月のNHKテレビの番組で、幕末維新期の「新漢語」について、私が語る予定だからである。
 日本人が考案した「新漢語」は、古代中国の漢語を「解釈改訳」して成功した例が、けっこうある。例えば「自由」も「人民」も「宇宙」も、千年以上も前の漢文に出てくる古い漢語だが、日本人の「解釈改訳」によって、近代西洋的な意味を付与されなおし、新しい単語に生まれ変わった。
 ただ「解釈改訳」と「誤訳」は、紙一重、という危うい側面もある。現代日本でも「預言者と予言者を書き分けるのは誤用」と批判する向きがあるほどだ。

 解釈改訳は、奥深い。
 日本国の国歌「君が代」の「君」は、君主すなわち天皇陛下を指すのか、それとも身近な「あなた」を指す二人称として読み替えるのか。これは単なる語学上の問題ではなく、その人の思想信条に関する問題でもある。
 「しゃぼんだま飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで、壊れて消えた、風、風、吹くな、しゃぼんだま飛ばそ」という歌の風速は、何メートルか。「屋根まで飛んだ」を、「屋根までもが吹き飛ばされて、壊れて消えた」と解釈し、これをギャグの歌に「解釈改訳」したのは、所ジョージ氏である。
 セルバンテスのどうしようもないお笑い小説「ドンキホーテ」を、「これは理想に燃える人間の悲劇を書いた文学だ」と再解釈したのは、トルストイであった。
 
 四月のNHKテレビ「日中二千年 漢字のつきあい」でも、日中関係二千年史についての世間の思いこみを、「解釈改訳」できれば、と思う。たぶん無理かもしれないが。

 いつになく長々と書いてしまった。本日も妄想は続く。