久しぶりに自宅の近所のことについて書く。

 二・二六事件(1936)のあと処刑された北一輝は、生前、中野区に住んでいた。
 北一輝・西田税らに対する判決文に言う。

東京府東京市杉並区和泉町百四十三番地
住所 同府同市中野区桃園町四十番地
無職 北輝次郎
明治十六年四月三日生

 杉並区の和泉、と言えば、私の勤務先(明治大学和泉校舎)である。
 中野区桃園町は、現在の地名表記では中野三丁目となる。
 北一輝が逮捕される直前まで住んでいた旧「桃園町四十番地」は、拙宅のすぐ近くである。
 もちろん偶然にすぎない。
 別に私は、北一輝のあとを追いかけて中野に引っ越してきたわけではない。

 ちなみに、北一輝といっしょに処刑された西田税は、

鳥取県米子市博労町一丁目百八十八番地
住所 東京府東京市杉並区高円寺四丁目五百三十七番地
著述業 西田税
明治三十四年十月三日生

 旧・杉並区高円寺四丁目は、現在の杉並区高円寺南五丁目にあたる。
 やはり、拙宅から歩いてすぐ近くのところである。
 北一輝と西田税、そして時代は違うが私は、ご近所さんどうしだったのだ。

 ちなみに、終戦後に豊多摩刑務所(現・中野区平和の森公園)で獄死した三木清が、1945年に逮捕されたとき住んでいた自宅も、西田税と同じ旧・杉並区高円寺四丁目であった。

 三木清と北一輝・西田税は、およそ対照的な思想家であるが、ともに中野のあたりに住み、執筆と思索にいそしみ、時の国家権力によって抹殺された。

 北一輝、西田税、三木清。
 昭和史の有名人であった彼らの旧居があった場所には、現在は一枚の記念プレートすらない。
 現在の近所の住民たちも、彼らが逮捕されるまでここに住んでいたことを、覚えていない。
 いや、そもそも今の世代は、北一輝や三木清という人間が歴史に存在したことを、あまり知らないのではないか。

 丸谷才一『低空飛行』所収の「中野桃園町」によると、若き日の丸谷氏も長いあいだ旧・桃園町(現在の中野三丁目)に住んでいた。
 当時まだ無名だった丸谷氏は、同じ町内に住んでいた文芸評論家の瀬沼茂樹(故人)と中野の古本屋で知り合い、その後、瀬沼氏の自宅にちょくちょく行くようになったという。
 丸谷氏は言う。

  われわれの同時代人のうち、最も高名な中野桃園町の住人はおそらく北一輝だらう。
 そのゆゑに、将来の日本人は、中野桃園町と聞けばただちに殺伐な気配、物騒な雰囲気
 を連想するのではないかと恐れる。(『低空飛行』「中野桃園町」)

 私が思うに、これは丸谷氏の杞憂に終わるだろう。
 「将来の日本人」は、北一輝という人物に対する関心も、「中野桃園町」という地名の記憶も、とうに失っているであろうから。

 いや、あるいは丸谷氏の憂慮が、将来、的中する日が来るかもしれない。

 拙宅の近所、旧・桃園町の一帯は、さまざまな出身者が集住する住宅地である。
 今夜も誰かが、世の中をひっくり返すような「危険思想」の文字を、こっそり書いているかもしれない。
 いや、そうに違いない。
 なぜなら、ご近所からまわってくる回覧板には、今でもよく中野警察署から、不審な人物を見かけたら通報してください、という内容のチラシが入っている。
 
 いまでも国家権力は、旧・桃園町を、危険思想の巣窟としてマークしているのかもしれない。

 だとすると、まずい。
 私はノンポリだが、最近『怪力乱神』という怪しげな本
http://www.geocities.jp/cato1963/book.html#kairiki
を出したので、すでに中野署からマークされているかもしれない。

 さて、どうしよう?(^^;;

 などと妄想がふくらむのは、きっと連夜の猛暑のせいである。

 北一輝が銃殺されたのは、1937年8月19日午前5時50分。
 三木清が獄死した(獄死させられた、という説もある)のは、1945年9月16日。
 遠い昔のご近所さんの冥福を祈る。──

 このほか、中野の近所には、歴史上の意外な人物にゆかりの場所が多いのだが、それについてはまたあらためて書くことにする(気がむいたら)。

 妄想の旅は続く。──