文庫版『漢文力』が書店の店頭に並んだ。
http://www.geocities.jp/cato1963/book.html#kbrbk
と言っても、まだ実際に書店の店頭では、見てない。
連日の猛暑で、書店まで行く気力がない。
太陽が落ちてから、値段が半額になったお総菜を求めて、しめぎわのスーパーに通う日々がしばらく続いている。
先日の続きで、中野区に住んでいた有名人について書く。
http://www.geocities.jp/cato1963/nakano.html#memo
にも抜き書きしておいたが、『中野区政史』という公刊の歴史書によると、戦前の中野区は、右翼と左翼の両方が住む町だったらしい。
右翼の思想家であった北一輝も、左翼だった河上肇や中島健蔵も、戦前の中野区にいたことがある。
あの周恩来も、中野区に下宿していた。周恩来は、日中国交回復のとき田中角栄といっしょに訪中した日本人記者に「中野もだいぶかわったでしょうね・・・・。若いころ・・・・中野で下宿していたことがあるんですよ」と語ったりしている。
周恩来は東京滞在中、中野から、御茶の水の明治大学(の前身)に通っていた。これって、私とそっくりな状況ではないか。
あまり知られていないが、戦前の職業軍人は、中野区と杉並区に住んでいた人が多かった。
昼間は市ヶ谷の陸軍省に勤め、夜は通勤列車で中野区の自宅にもどる、というパターンである。
職業軍人も、平時はしがない公務員。家賃が安く、中央線で一本で通える中野区は人気があった。
いっぽう、左翼活動家とか当時「支那人」と呼ばれていた中国人にとっても、中野区は住みやすい町だった。家賃が安く、空き家も多いので、他の区では大家から入居を断られた彼らも、中野区では歓迎されたのである。
その結果、戦前の中野区は、東京のなかでも左翼と右翼の両極端の中心となる、というユニークな町になってしまった。
中野区の面妖さを象徴するエピソードがある。
現在の中野区に、東京大学教育学部附属中等教育学校がある。
名前は長ったらしいが、要するに、東大の附属の中学・高校。
ここは戦前の「東京高等学校」であった。
昭和四年のこと。この東京高等学校の記念祭で、あるクラスは、仮装行列で色気狂と殺人狂という「松沢病院のピクニック」なる行進をした。
松沢病院は、日本で最も有名な精神病院である。
その際、ある生徒は、父兄の福田雅太郎大将の「ベタ金の軍服」をもってこさせ、手に「殺人狂」のプラカードをかかげてグラウンドを一周した。
この福田大将という人は、戦前の有名な職業軍人であった。大正時代の関東大震災当のとき、戒厳令司令官をつとめた。そのため、大杉栄らを殺させた巨悪の仇として、アナーキストの和田久太郎らに暗殺されそうになった(たまたまピストルが空砲で命びろいした)。
それにしても、昭和四年(1929)の中野区は、なんとまあ、おおらかであったことか。
子供が、帝国陸軍の大将の本物の軍服を持ち出して、「松沢病院のピクニック」というふざけた仮装行列に使うとは。
昭和四年当時といえども、千代田区や杉並区では、ちょっとありえない現象であったろう。
左翼と右翼、有爵者と労働者、サラリーマンがごっちゃになって集住していた戦前の中野区ならではのエピソードである。
戦後の中野区にも、いろいろと面白い人々が住んでいたが、それについてはまた別の機会に。
http://www.geocities.jp/cato1963/book.html#kbrbk
と言っても、まだ実際に書店の店頭では、見てない。
連日の猛暑で、書店まで行く気力がない。
太陽が落ちてから、値段が半額になったお総菜を求めて、しめぎわのスーパーに通う日々がしばらく続いている。
先日の続きで、中野区に住んでいた有名人について書く。
http://www.geocities.jp/cato1963/nakano.html#memo
にも抜き書きしておいたが、『中野区政史』という公刊の歴史書によると、戦前の中野区は、右翼と左翼の両方が住む町だったらしい。
右翼の思想家であった北一輝も、左翼だった河上肇や中島健蔵も、戦前の中野区にいたことがある。
あの周恩来も、中野区に下宿していた。周恩来は、日中国交回復のとき田中角栄といっしょに訪中した日本人記者に「中野もだいぶかわったでしょうね・・・・。若いころ・・・・中野で下宿していたことがあるんですよ」と語ったりしている。
周恩来は東京滞在中、中野から、御茶の水の明治大学(の前身)に通っていた。これって、私とそっくりな状況ではないか。
あまり知られていないが、戦前の職業軍人は、中野区と杉並区に住んでいた人が多かった。
昼間は市ヶ谷の陸軍省に勤め、夜は通勤列車で中野区の自宅にもどる、というパターンである。
職業軍人も、平時はしがない公務員。家賃が安く、中央線で一本で通える中野区は人気があった。
いっぽう、左翼活動家とか当時「支那人」と呼ばれていた中国人にとっても、中野区は住みやすい町だった。家賃が安く、空き家も多いので、他の区では大家から入居を断られた彼らも、中野区では歓迎されたのである。
その結果、戦前の中野区は、東京のなかでも左翼と右翼の両極端の中心となる、というユニークな町になってしまった。
中野区の面妖さを象徴するエピソードがある。
現在の中野区に、東京大学教育学部附属中等教育学校がある。
名前は長ったらしいが、要するに、東大の附属の中学・高校。
ここは戦前の「東京高等学校」であった。
昭和四年のこと。この東京高等学校の記念祭で、あるクラスは、仮装行列で色気狂と殺人狂という「松沢病院のピクニック」なる行進をした。
松沢病院は、日本で最も有名な精神病院である。
その際、ある生徒は、父兄の福田雅太郎大将の「ベタ金の軍服」をもってこさせ、手に「殺人狂」のプラカードをかかげてグラウンドを一周した。
この福田大将という人は、戦前の有名な職業軍人であった。大正時代の関東大震災当のとき、戒厳令司令官をつとめた。そのため、大杉栄らを殺させた巨悪の仇として、アナーキストの和田久太郎らに暗殺されそうになった(たまたまピストルが空砲で命びろいした)。
それにしても、昭和四年(1929)の中野区は、なんとまあ、おおらかであったことか。
子供が、帝国陸軍の大将の本物の軍服を持ち出して、「松沢病院のピクニック」というふざけた仮装行列に使うとは。
昭和四年当時といえども、千代田区や杉並区では、ちょっとありえない現象であったろう。
左翼と右翼、有爵者と労働者、サラリーマンがごっちゃになって集住していた戦前の中野区ならではのエピソードである。
戦後の中野区にも、いろいろと面白い人々が住んでいたが、それについてはまた別の機会に。
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