昨日、日曜日、中野にある丸井デパート本店が60年の歴史に終止符をうち、閉店した。
閉店当日は、どこの階もごった返していた。
私は昨秋以来、一年しかこの丸井に通わなかったけれど、昭和の香りを残す良い意味でレトロな店舗だった。
丸井の本店よりはるかに立派で新しい店舗が、新宿など各地にできているので、しかたないかもしれないが、ちょっと残念な気もする。
いまの中野駅周辺にあるめぼしいビルも、あと数十年もすれば、かなり入れ替わることになるのだろう。
中野に限らず、日本の町は、狭い土地を自転車操業的に回転させねば、町としての機能を維持できないのかもしれない。
拙宅の近辺は、江戸時代、徳川五代将軍綱吉の時代に広大な「お犬小屋」があった。
しかし綱吉の没後、犬の収容施設は撤去され、屋根瓦一枚も残らなかった。
徳川幕府は、生類憐れみの令、で庶民に多大の苦痛を与えたことへの償いの意味もあって、中野の拙宅の近辺に「桃園」を作った。
美しい桃の花を植えた、日本史上、最初の公園の一つである。
しかしその後、桃の木は一本も残らなかった。
いまは一面の住宅地である。
建物も人も、東京では、跡形も残らない。
残るのは、わずかに町名と、道割だけである。
綱吉の時代にあった中野のお犬小屋の外形は、現在の地図でも、道路としてかろうじて残っている。
また「囲町(かこいまち)」という地名も、「お囲い」からきている。
戦前まであった「中野区桃園町」という地名も、今では「中野三丁目」になって久しいが、現地には「桃園第○小学校」「桃園幼稚園」「桃園通り」などの形で残っている。
JR中野駅には、中央線の電車が走っている。
地図を見るとわかるが、この鉄道の形は、かなり変わっている。
新宿から大久保まで北に進み、そこから左(西)に九十度まがり、そのまま立川あたりまで定規で直線を引いたようにひたすらまっすぐである。
まるで、オーストラリア大陸横断鉄道の小型版のように、見事なほどまっすぐである。
これほど見事な直線は、日本でも珍しい。
実は、これは明治時代の庶民の生活のなごりである。
もともと中央線は、甲武鉄道として、甲州街道と並んで作られる予定だった。
ところが、甲州街道沿線の住民が、大反対した。
鉄道が通れば、街道添いの駕籠屋も、旅館も、商売あがったりになってしまうからだ。
そこでしかたなく、鉄道は、新宿からいったん北上して、北の(当時は田舎だった)中野とか荻窪を通るようになった。
しかもその工事を担当したのは、陸軍の鉄道敷設隊だった。
当時は演習を兼ねて、軍隊が鉄道を敷設するのが、珍しくなかった。
そのため、中央線は、日本の鉄道としては例外的に、立川までは完璧な直線になった。
快速列車を走らせるのに理想的な鉄道として、明治のころから世界の鉄道学界でも注目されたという。
後日談として、甲州街道添いの住民は、のちに鉄道敷設を拒否したことを、猛烈に後悔したという。
甲州街道に添って、現在では京王線が走っているが、この鉄道が最初に敷設されたときは、当時の日本でも珍しいくらい現地住民から熱烈に歓迎されたらしい。
とまあ、庶民の歴史は、東京の町の線路の形とか、町の道路の曲がり具合、商店街の名前などに残っている。
ちなみに、筆者の勤務先である明治大学和泉キャンパスは、幕末から大正まで、軍隊の火薬庫があったところである。
関東大震災のときも、ちょっと陰惨なエピソードがあったりする。
ただし、いまの校舎には、東京の町の常として、以前の歴史を感じさせるものは何もない。
若々しい学生たちの笑顔があふれているだけである。
しかし、周囲の地名や道割をよく見ると・・・・・・
また長々と妄想を書いてしまった。
今夜も寝苦しい。
気がむいたら、いつかまた続きを書くかもしれない。
自分でも忘れて、この話はこれで終わりかも知れない。
まあ、どうでもよい。
しょせんは私のブログだから。
閉店当日は、どこの階もごった返していた。
私は昨秋以来、一年しかこの丸井に通わなかったけれど、昭和の香りを残す良い意味でレトロな店舗だった。
丸井の本店よりはるかに立派で新しい店舗が、新宿など各地にできているので、しかたないかもしれないが、ちょっと残念な気もする。
いまの中野駅周辺にあるめぼしいビルも、あと数十年もすれば、かなり入れ替わることになるのだろう。
中野に限らず、日本の町は、狭い土地を自転車操業的に回転させねば、町としての機能を維持できないのかもしれない。
拙宅の近辺は、江戸時代、徳川五代将軍綱吉の時代に広大な「お犬小屋」があった。
しかし綱吉の没後、犬の収容施設は撤去され、屋根瓦一枚も残らなかった。
徳川幕府は、生類憐れみの令、で庶民に多大の苦痛を与えたことへの償いの意味もあって、中野の拙宅の近辺に「桃園」を作った。
美しい桃の花を植えた、日本史上、最初の公園の一つである。
しかしその後、桃の木は一本も残らなかった。
いまは一面の住宅地である。
建物も人も、東京では、跡形も残らない。
残るのは、わずかに町名と、道割だけである。
綱吉の時代にあった中野のお犬小屋の外形は、現在の地図でも、道路としてかろうじて残っている。
また「囲町(かこいまち)」という地名も、「お囲い」からきている。
戦前まであった「中野区桃園町」という地名も、今では「中野三丁目」になって久しいが、現地には「桃園第○小学校」「桃園幼稚園」「桃園通り」などの形で残っている。
JR中野駅には、中央線の電車が走っている。
地図を見るとわかるが、この鉄道の形は、かなり変わっている。
新宿から大久保まで北に進み、そこから左(西)に九十度まがり、そのまま立川あたりまで定規で直線を引いたようにひたすらまっすぐである。
まるで、オーストラリア大陸横断鉄道の小型版のように、見事なほどまっすぐである。
これほど見事な直線は、日本でも珍しい。
実は、これは明治時代の庶民の生活のなごりである。
もともと中央線は、甲武鉄道として、甲州街道と並んで作られる予定だった。
ところが、甲州街道沿線の住民が、大反対した。
鉄道が通れば、街道添いの駕籠屋も、旅館も、商売あがったりになってしまうからだ。
そこでしかたなく、鉄道は、新宿からいったん北上して、北の(当時は田舎だった)中野とか荻窪を通るようになった。
しかもその工事を担当したのは、陸軍の鉄道敷設隊だった。
当時は演習を兼ねて、軍隊が鉄道を敷設するのが、珍しくなかった。
そのため、中央線は、日本の鉄道としては例外的に、立川までは完璧な直線になった。
快速列車を走らせるのに理想的な鉄道として、明治のころから世界の鉄道学界でも注目されたという。
後日談として、甲州街道添いの住民は、のちに鉄道敷設を拒否したことを、猛烈に後悔したという。
甲州街道に添って、現在では京王線が走っているが、この鉄道が最初に敷設されたときは、当時の日本でも珍しいくらい現地住民から熱烈に歓迎されたらしい。
とまあ、庶民の歴史は、東京の町の線路の形とか、町の道路の曲がり具合、商店街の名前などに残っている。
ちなみに、筆者の勤務先である明治大学和泉キャンパスは、幕末から大正まで、軍隊の火薬庫があったところである。
関東大震災のときも、ちょっと陰惨なエピソードがあったりする。
ただし、いまの校舎には、東京の町の常として、以前の歴史を感じさせるものは何もない。
若々しい学生たちの笑顔があふれているだけである。
しかし、周囲の地名や道割をよく見ると・・・・・・
また長々と妄想を書いてしまった。
今夜も寝苦しい。
気がむいたら、いつかまた続きを書くかもしれない。
自分でも忘れて、この話はこれで終わりかも知れない。
まあ、どうでもよい。
しょせんは私のブログだから。
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