台風が来る。
 というより、来た。
 いま窓の外では、雨が降ったり、一時的にやんだりしている。

 台風というと、今でも連想するものがある。
 木の雨戸と、釘である。

 私が子供のころ、昭和四十年代前半くらいまでの漫画では、台風が来る前に木製の雨戸に釘で板をうちつけて補強するシーンが、よく描かれていた。
 漫画のなかでこそよく見たが、実際に、雨戸に釘を打っている人を、私は見たことはない。
 すでに昭和四十年代前半の時点で、日本の家屋は、けっこう丈夫になっていたのだろう。

 ちなみに私は子供のころは、千葉県柏市の豊四季台団地
http://www.geocities.jp/cato1963/anomati.html
に住んでいたので、そもそも家に「雨戸」はなく、むきだしのガラス窓だった。
 台風で団地のガラス窓が割れたことは、一度もなかった。

平成五年(1993)から昨年まで、広島市に住んでいた。
 何度か台風を経験したが、どれも、それほど強くなかった。
 宮島の厳島神社は、Wikipediaによると、

台風19号 (1991年) - 重要文化財の「能舞台」が倒壊した。桧皮葺の屋根も大きな被害を受けた。
台風18号 (1999年) - 国宝の「神社」及び「社殿」が大きな被害を受けた。
台風18号 (2004年) - 国宝附指定の「左楽房」が倒壊した。桧皮葺の屋根も被害を受けた。

と、何度も台風で破壊されている。
 しかし、広島市内の拙宅の周辺では、市街地であったせいか、それほどの被害はなかった。

 昨年、広島から東京に引っ越したときは、荷物は業者に頼んだが、私と家族はマイカーで東京まで移動した。
 ちょうど台風が、広島に接近していたときだった。
 広島を出発して一般道でまず三次に向かい、そこから中国自動車道(高速道路)に入り、ひたすら東にむかって逃げるように走った。
 まるで台風に後ろから追いかけられるようで、ちょっとスリルがあった。

 今夜は、中野の自宅で迎える最初の台風である。
 不謹慎な言いかただが、少し、わくわくしている。

 中野区の防災気象情報のホームページ
http://dim2web09.wni.co.jp/nakanocity/livecamera/index.html
というのがあって、中野区内の各地のライブ映像や、雨量、中野区内を流れる川の水量などを、リアルタイムで刻々と流している。
 いまのところ、区内で浸水被害の心配はないようだ。
 もちろん、まだまだこれからで、気がぬけないけれども。

 拙著『怪力乱神』
http://www.geocities.jp/cato1963/book-kairiki.html
でも書いたが、漢語「怪」kwaiは、
「塊」kwai、「回」kwai、
「鬼」kwi、
「魂」「渾」kwun、
「群」gwun
と同系の語であった。
 古代中国語で、kwai(クワイ)は「まるくまとまったもの」を意味した。
 古代ギリシャ人は、円球を「最も完全な形」であり「神の形」と考えた。これと同様に、古代中国人の自然認知でも、kwaiを「大自然の基本形」としてとらえた。

 kwaiの最後のiが脱落したのがkwa(クワ。渦、蝸、鍋、窩、・・・)で、これは「まるい穴」を意味する。
 kwaiの最後のiが弱化したのがkwun(コン)やgwun(グン)である。

 漢字は、その総数こそ多いものの、その音によってword family(単語家族)に分類すると、実は意外と少ない数の基本語に整理できる。

 さて、われわれがよく知る台風は、巨大な風の「群」であり、「渦」である。
 つまり、古代中国人の自然観では、台風は「怪」の最たるものの一つであった。
 『荘子』の冒頭に、「鯤」(こん)という巨大な魚が出てくる。
 この鯤の原義は、「昆」kwunすなわち「円く群がる」小魚の群れ、である。無数の小魚が数億匹も集まって、一つの巨大魚の姿になる。それが「鯤」の隠れた正体なのであった。

 ちなみに「鵬」は「おおとり」と訓読みするが、実は「鵬」の原義も、巨大な鳥ではなく、びっしり並ぶ無数の小鳥、という意味なのだ。

 海から蒸発した微小な雨粒が無数に集まって、巨大な台風になる。
 古代中国人は、そこに大自然の畏敬すべき「怪」のパワーを見いだした。

 今夜、私は、中野の拙宅で、台風を迎える。
 はるか南方の海で、「大塊」(地球のことを、漢文ではこう呼ぶ)のkwaiのパワーから生まれた巨大な「渦」kwaと、自宅で対面する。
 台風。
 それは大自然の「渾沌」の化身。
 『荘子』の「鯤」の一バージョン。

 私がちょっとわくわくする気持ちになるのも、無理ないではないか。

 ──などと怪しげな妄想を私が自室で書いているいまこの瞬間も、台風のために電車が止まって帰宅できなくなったり、避難勧告を受けて自宅を出て小学校の体育館で夜を過ごしている人が、いることであろう。

 不謹慎な妄想を書きつらねるのは、今夜はとりあえずここまで。