中国で韓国企業の無断撤退急増
監禁事件も発生
http://www.chosunonline.com/article/20080125000067
中国山東省即墨市にある韓国系皮革工場H社で責任者を務めるC部長は昨年12月末、帰宅直前に10人ほどの集団に取り囲まれ、そのまま事務室内に監禁された。ドアは施錠され「抵抗すれば殺す」などと脅された。工場の建物の所有主が送った暴力グループの犯行だった。
(中略)C部長が監禁されている間、家族は韓国領事館に連絡し、警察が出動したが事態解決の役には立たなかった。警察官は会社の正門までやって来たが、所有主と短い会話を交わすとすぐに帰ってしまったという。C部長は「生命の危険を感じる。中国に来たことを後悔している」と話した。
(以下、略)
「韓国企業はなぜ甘い汁だけ吸って逃げ出すのか」
http://www.chosunonline.com/article/20080125000069
中国で起こった韓国人暴行・拉致事件について、中国人だけが非難を受けるべきなのか。現地の韓国人社会では「韓国企業にも問題が多い」と指摘した。
(中略)
現地の韓国人会関係者は、「中国側に最大の被害を負わせたまま逃げ出したという事実が知られるようになり、中国人の感情は非常に怒りに満ちている」と述べた。
(以下、略)
1990年秋から一年間、私は、北京大学に留学していた。
http://www.geocities.jp/cato1963/fotoPK1.html
に、当時の写真を載せているが、留学中はあちこちを一人で旅行した。
今の中国では、韓国人をよく見かける。
しかし1990年~91年当時は、韓国人は、ほとんど中国にいなかった。
なぜなら、韓国と中国が国交を結んだのは、1992年になってから。
私が留学していた当時、中国は、朝鮮民主主義人民共和国のみを正式の国家と認め、韓国とまだ国交を結んでいなかった。
当時の中国語では、韓国のことを「南朝鮮」と呼んでいた。
だから中国国内では、韓国人を、ほとんど見かけなかった。
しかし、私は旅先で見かけたのである。
今にして思うと、私は、中国に進出した最初の韓国人を目撃していたのかもしれない。
ある田舎町の、普通の食堂だった。
日本人がめったに来ないような、普通の田舎町。
そこで一人で食事をしていると、日本語の会話が耳に入ってきた。
見ると、少し離れたテーブルで、三人の男が会話をしている。
中年の中国人が一人。
通訳をしている若い中国人が一人。
そして、スーツをピシッと着こんだ老紳士が一人。
当時の中国で、スーツを着ている人はめったにいなかった。一見して外国人である。
老紳士が語る日本語の会話を、中国人の通訳が日本語に直して、相手に伝える。
三人は談笑しつつ、ビジネスの話をしていた。
奇妙なことに、通訳だけでなく、老紳士の話す日本語に、微妙な違和感があった。
発音も語彙も正確なのだが、正確すぎるのだ。
現代日本人が使うようなくだけた日本語ではない。楷書のような、キチンとした日本語。
しばらく聞いて、私は、やっとわかった。
この老紳士は、韓国のビジネスマンなのであった。1991年当時、まだ国交が結ばれていなかった中国大陸に最初に乗り込んできた韓国人のうちの一人──
それにしても、日本人が誰もいない、めったにこないところで、日本語が「国際語」として使われているとは。
おそらく英語圏の人間は、世界のどこへ行っても、似たような経験をするのであろう。が、日本人である私は、自分の母語がこんな田舎町で使われるていることに、奇妙な感覚をおぼえた。
少しして、私はこの三人に声をかけてみた。
三人は、私が日本人だと知って、少々びっくりしたようだった。
スーツ姿の韓国の老紳士は、笑顔を浮かべ、完璧な──完璧すぎて不自然なほどの日本語で、私に、
「これからはアジアの時代です。ここであなたのような若い日本人と(当時の私はまだ二十歳代だった)お会いできたのも、何かのご縁でしょう。私たちは手をたずさえて、共存共栄ができることと信じています」
と熱く語った。私たち四人は、その食堂で、ひとしきり歓談した。
──それが1991年のことだった。
その後、二度と彼らとは会っていない。旅先の、一期一会の出合いであった。
あれから、ふと気づけば17年。
中国は高度成長を続け、そのGDPは名目でもドイツを追い抜いて世界第三位になった(購買力平価ではすでに日本のGDPの2倍)。
韓国も、中国国内での存在感を、圧倒的にしている。
だが21世紀の今日・・・・・・
あの韓国人の老紳士は、今も健在だろうか。
中国人の若い日本語通訳は、中国の土地の有力者は、その後どうしたろうか。
あの老紳士の企業が、その後、中国に進出したかどうかは、私は知る由もない。
だが、袖(そで)振り合うも多生(たしょう)の縁(えん)、と言う。
少なくとも、あの温厚な老紳士の韓国企業が、中国人とうまくやっていることを、漠然と祈る。
ふりかえってみれば、私も仕事で、どっぷり中国につかっている。
職場は日本だが、仕事の内容は、中国がらみである。
すでに底なし沼みたいだ。
無断撤退するのは、もう手遅れのようだ。
まあ、それもまたよし。
監禁事件も発生
http://www.chosunonline.com/article/20080125000067
中国山東省即墨市にある韓国系皮革工場H社で責任者を務めるC部長は昨年12月末、帰宅直前に10人ほどの集団に取り囲まれ、そのまま事務室内に監禁された。ドアは施錠され「抵抗すれば殺す」などと脅された。工場の建物の所有主が送った暴力グループの犯行だった。
(中略)C部長が監禁されている間、家族は韓国領事館に連絡し、警察が出動したが事態解決の役には立たなかった。警察官は会社の正門までやって来たが、所有主と短い会話を交わすとすぐに帰ってしまったという。C部長は「生命の危険を感じる。中国に来たことを後悔している」と話した。
(以下、略)
「韓国企業はなぜ甘い汁だけ吸って逃げ出すのか」
http://www.chosunonline.com/article/20080125000069
中国で起こった韓国人暴行・拉致事件について、中国人だけが非難を受けるべきなのか。現地の韓国人社会では「韓国企業にも問題が多い」と指摘した。
(中略)
現地の韓国人会関係者は、「中国側に最大の被害を負わせたまま逃げ出したという事実が知られるようになり、中国人の感情は非常に怒りに満ちている」と述べた。
(以下、略)
1990年秋から一年間、私は、北京大学に留学していた。
http://www.geocities.jp/cato1963/fotoPK1.html
に、当時の写真を載せているが、留学中はあちこちを一人で旅行した。
今の中国では、韓国人をよく見かける。
しかし1990年~91年当時は、韓国人は、ほとんど中国にいなかった。
なぜなら、韓国と中国が国交を結んだのは、1992年になってから。
私が留学していた当時、中国は、朝鮮民主主義人民共和国のみを正式の国家と認め、韓国とまだ国交を結んでいなかった。
当時の中国語では、韓国のことを「南朝鮮」と呼んでいた。
だから中国国内では、韓国人を、ほとんど見かけなかった。
しかし、私は旅先で見かけたのである。
今にして思うと、私は、中国に進出した最初の韓国人を目撃していたのかもしれない。
ある田舎町の、普通の食堂だった。
日本人がめったに来ないような、普通の田舎町。
そこで一人で食事をしていると、日本語の会話が耳に入ってきた。
見ると、少し離れたテーブルで、三人の男が会話をしている。
中年の中国人が一人。
通訳をしている若い中国人が一人。
そして、スーツをピシッと着こんだ老紳士が一人。
当時の中国で、スーツを着ている人はめったにいなかった。一見して外国人である。
老紳士が語る日本語の会話を、中国人の通訳が日本語に直して、相手に伝える。
三人は談笑しつつ、ビジネスの話をしていた。
奇妙なことに、通訳だけでなく、老紳士の話す日本語に、微妙な違和感があった。
発音も語彙も正確なのだが、正確すぎるのだ。
現代日本人が使うようなくだけた日本語ではない。楷書のような、キチンとした日本語。
しばらく聞いて、私は、やっとわかった。
この老紳士は、韓国のビジネスマンなのであった。1991年当時、まだ国交が結ばれていなかった中国大陸に最初に乗り込んできた韓国人のうちの一人──
それにしても、日本人が誰もいない、めったにこないところで、日本語が「国際語」として使われているとは。
おそらく英語圏の人間は、世界のどこへ行っても、似たような経験をするのであろう。が、日本人である私は、自分の母語がこんな田舎町で使われるていることに、奇妙な感覚をおぼえた。
少しして、私はこの三人に声をかけてみた。
三人は、私が日本人だと知って、少々びっくりしたようだった。
スーツ姿の韓国の老紳士は、笑顔を浮かべ、完璧な──完璧すぎて不自然なほどの日本語で、私に、
「これからはアジアの時代です。ここであなたのような若い日本人と(当時の私はまだ二十歳代だった)お会いできたのも、何かのご縁でしょう。私たちは手をたずさえて、共存共栄ができることと信じています」
と熱く語った。私たち四人は、その食堂で、ひとしきり歓談した。
──それが1991年のことだった。
その後、二度と彼らとは会っていない。旅先の、一期一会の出合いであった。
あれから、ふと気づけば17年。
中国は高度成長を続け、そのGDPは名目でもドイツを追い抜いて世界第三位になった(購買力平価ではすでに日本のGDPの2倍)。
韓国も、中国国内での存在感を、圧倒的にしている。
だが21世紀の今日・・・・・・
あの韓国人の老紳士は、今も健在だろうか。
中国人の若い日本語通訳は、中国の土地の有力者は、その後どうしたろうか。
あの老紳士の企業が、その後、中国に進出したかどうかは、私は知る由もない。
だが、袖(そで)振り合うも多生(たしょう)の縁(えん)、と言う。
少なくとも、あの温厚な老紳士の韓国企業が、中国人とうまくやっていることを、漠然と祈る。
ふりかえってみれば、私も仕事で、どっぷり中国につかっている。
職場は日本だが、仕事の内容は、中国がらみである。
すでに底なし沼みたいだ。
無断撤退するのは、もう手遅れのようだ。
まあ、それもまたよし。
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