日本語は難しい。
意味の似た言葉でも、微妙に意味が違ったりする。
例えば、最近よく聞く「改革」「変革」もそうだ。
現代の日本人は、改革と変革をゴッチャに混ぜて使っている。
でも、歴史的に見れば、改革と変革は違う意味だった。
改革は、例えば「江戸時代の三大改革」がそうだ。
改革の目的は、体制の延命である。
要するに、弥縫策。
歴史的に見ると、意外に保守派が改革に熱心であることも多い。
江戸幕府は何度も「改革」を行い、長期にわたって存続したが、最後はやはり滅亡した。
改革の果てに来たのが、日本の「変革」だった。
「変革」の語は、明治天皇の「五箇条の御誓文」の勅語に出てくる。
「五箇条の御誓文」(慶応4年3月14日)
一 広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ
一 上下(しょうか)心ヲ一(ひとつ)ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其(おのおの)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ
我国未曾有ノ変革ヲ為(なさ)ントシ 朕躬(ちんみ)ヲ以テ衆ニ先シ 天地神明ニ誓ヒ 大ニ斯(この)国是(こくぜ)ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス 衆亦(また)此(この)旨趣ニ基キ共心努力セヨ
(上記の現代語訳や解説は、明治神宮のホームページの
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
や、Wikipediaなどを参照のこと)。
「改革」は、しょせんは弥縫策である。
「変革」は、じつは創造的破壊である。
改革は他動詞的である。
変革は自動詞的である。
「日本の改革」とは、日本を変えること。
「日本の変革」とは、日本が変わること。
改革を行うと、最終的には、必ず規制や規則が増える。これは江戸時代の歴史で実証済み。
変革の目的は、「旧来ノ陋習(ろうしゅう)を破」ること。明治天皇の勅語が実例。
いまの日本に必要なのは、改革だろうか?
それとも変革だろうか?
いや、あるいは、まさか・・・今度こそ、日本史上初の「革命」だろうか?
ちなみに、中国共産党が一貫して行っている政策は「改革開放」である。
「変革」ではない。
ここが現代中国理解のツボの一つなのだが、ここに気づいている日本人は、あまりいない──
それにしても、言葉は微妙である。
先日、きたる三月五日発売予定の季刊『大航海』(新書館)
http://www.shinshokan.co.jp/daikokai/index_daikokai.html
の最新号「特集 中国──歴史と現在」のために、原稿を書いた。拙稿のタイトルは「社会階層から見た日中交流」。現在、印刷中である。
その拙稿を書くにあたり、私は、一般読者の目に慣れているであろう「庶民階層」という語を使うか、それとも「庶人階層」という語にするかで、ちょっと悩んだ。
庶民と庶人。
類義語だが、ニュアンスが違う。
庶人は「官位を持たない人」の意味。
庶民は「社会的地位もないし、金持ちでもない普通の人々」の意味。
江戸時代で言えば、例えば、落語に出てくる熊さんや八つぁんは、庶民でもあり庶人でもある。
しかし江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門とか、江戸のスターだった市川團十郎は、庶人ではあるが庶民とは呼べまい。
「士商階層」の対語ならば「庶民階層」。
「士人階層」の対語ならば「庶人階層」。
──というように自分で用法を決めて、使い分けた。
しかし世間の文章を見ると、庶人階層と庶民階層を区別せず、ゴッチャにしているものも多い。
さらに言うと、日本語文献では「庶民階層」が多く、中国語文献では「庶人階層」が多い、という言語の違いもあり、中国語文献を読み慣れた人は「庶人階層」という用語を使いがちであるという傾向も日本では見られるのだが──
などと、単語の意味を考えることに時間を費やしているうちに、すっかり夜は更けた。
まだ夜は、たっぷり時間がある。
今夜は「ライスカレー」と「カレーライス」の語感の差について、哲学的思考を働かせることにしよう。
なぜ「ライスカレー」には、高度成長期以前の貧しい日本、というイメージがつきまとうのか。その理由を考えるに・・・・・・
妄想の旅は続く。──
意味の似た言葉でも、微妙に意味が違ったりする。
例えば、最近よく聞く「改革」「変革」もそうだ。
現代の日本人は、改革と変革をゴッチャに混ぜて使っている。
でも、歴史的に見れば、改革と変革は違う意味だった。
改革は、例えば「江戸時代の三大改革」がそうだ。
改革の目的は、体制の延命である。
要するに、弥縫策。
歴史的に見ると、意外に保守派が改革に熱心であることも多い。
江戸幕府は何度も「改革」を行い、長期にわたって存続したが、最後はやはり滅亡した。
改革の果てに来たのが、日本の「変革」だった。
「変革」の語は、明治天皇の「五箇条の御誓文」の勅語に出てくる。
「五箇条の御誓文」(慶応4年3月14日)
一 広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ
一 上下(しょうか)心ヲ一(ひとつ)ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其(おのおの)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ
我国未曾有ノ変革ヲ為(なさ)ントシ 朕躬(ちんみ)ヲ以テ衆ニ先シ 天地神明ニ誓ヒ 大ニ斯(この)国是(こくぜ)ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス 衆亦(また)此(この)旨趣ニ基キ共心努力セヨ
(上記の現代語訳や解説は、明治神宮のホームページの
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
や、Wikipediaなどを参照のこと)。
「改革」は、しょせんは弥縫策である。
「変革」は、じつは創造的破壊である。
改革は他動詞的である。
変革は自動詞的である。
「日本の改革」とは、日本を変えること。
「日本の変革」とは、日本が変わること。
改革を行うと、最終的には、必ず規制や規則が増える。これは江戸時代の歴史で実証済み。
変革の目的は、「旧来ノ陋習(ろうしゅう)を破」ること。明治天皇の勅語が実例。
いまの日本に必要なのは、改革だろうか?
それとも変革だろうか?
いや、あるいは、まさか・・・今度こそ、日本史上初の「革命」だろうか?
ちなみに、中国共産党が一貫して行っている政策は「改革開放」である。
「変革」ではない。
ここが現代中国理解のツボの一つなのだが、ここに気づいている日本人は、あまりいない──
それにしても、言葉は微妙である。
先日、きたる三月五日発売予定の季刊『大航海』(新書館)
http://www.shinshokan.co.jp/daikokai/index_daikokai.html
の最新号「特集 中国──歴史と現在」のために、原稿を書いた。拙稿のタイトルは「社会階層から見た日中交流」。現在、印刷中である。
その拙稿を書くにあたり、私は、一般読者の目に慣れているであろう「庶民階層」という語を使うか、それとも「庶人階層」という語にするかで、ちょっと悩んだ。
庶民と庶人。
類義語だが、ニュアンスが違う。
庶人は「官位を持たない人」の意味。
庶民は「社会的地位もないし、金持ちでもない普通の人々」の意味。
江戸時代で言えば、例えば、落語に出てくる熊さんや八つぁんは、庶民でもあり庶人でもある。
しかし江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門とか、江戸のスターだった市川團十郎は、庶人ではあるが庶民とは呼べまい。
「士商階層」の対語ならば「庶民階層」。
「士人階層」の対語ならば「庶人階層」。
──というように自分で用法を決めて、使い分けた。
しかし世間の文章を見ると、庶人階層と庶民階層を区別せず、ゴッチャにしているものも多い。
さらに言うと、日本語文献では「庶民階層」が多く、中国語文献では「庶人階層」が多い、という言語の違いもあり、中国語文献を読み慣れた人は「庶人階層」という用語を使いがちであるという傾向も日本では見られるのだが──
などと、単語の意味を考えることに時間を費やしているうちに、すっかり夜は更けた。
まだ夜は、たっぷり時間がある。
今夜は「ライスカレー」と「カレーライス」の語感の差について、哲学的思考を働かせることにしよう。
なぜ「ライスカレー」には、高度成長期以前の貧しい日本、というイメージがつきまとうのか。その理由を考えるに・・・・・・
妄想の旅は続く。──
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