塚本靑史『始皇帝』(講談社文庫)
2009年8月12日刊

解説

加藤徹(明治大学教授)

 始皇帝は「中国」を作った男である。
 「一つの中国」という強烈な共同幻想。領土や物財、寿命に
対するあくなき膨張欲。一極集中の権力による強力な支配。こ
うした中華帝国のグランドデザインを最初に実現したのが、他
ならぬ始皇帝という男であった。
 西洋で中国を指す「チャイナ」や「シナ」という名称の語源
も、始皇帝の「秦」である、というのが定説となっている。
 もし始皇帝があらわれなかったら、その後の中国はどうなっ
ていたろう。たぶん、ヨーロッパやイスラム圏のように、バラ
バラの独立国が並立する地域になっていたろう。実際、過去の
中国には、三国志のような分裂期もあった。だが、そのような
分裂期でさえ、中国人は「一つの中国」という強迫観念に呪縛
されていた。例えば、もし三国志の曹操や諸葛孔明がヨーロッ
パ人であったなら、「天下が分裂して何が悪い」と開き直り、
「中国」は複数の独立国がゆるやかに結びつく文明圏になって
いたろう。古代ローマ帝国滅後のヨーロッパが、そうなったよ
うに。

 過去、二千年以上にわたって膨張と統一を維持してきた「中
国」という世界の秘密を知るキーワードを一つ選ぶとするなら
、それは「皇帝」である。
 古代中国において、「皇」は膨張の神を、「帝」は集中の神
を指した。
 「皇」の字形の上半分の「白」は、字源的には「自」すなわ
ち「はじめ」の意味である。「皇」の原義は「神のような人類
の始祖」だ。「皇(コウ)」という字音は、果てしなく広がる大
いなる空間を意味する「広(コウ)」、広々として何もない「荒(
コウ)」、大地の色で膨張色でもある「黄(コウ)」、四方に広
がるかがやき「光(コウ)」「煌(コウ)」などと同系で、末広が
りという語感をもつ。
 「帝」の字源は、複数の糸をたばねてひきしめる形である。
糸できつくしめあげるのは「締」。ウマやシカのひきしまった
ひづめは「蹄」。のどもとをキュッとひきしめて鳴くのは「啼
」。ものごとの肝心かなめの大切なところは「要諦」。太古の
殷の時代、「帝」は、万物をたばねて支配する最高の神、とい
う意味だった。
 膨張と永続の神「皇」と、一極集中の神「帝」。
この二つを組み合わせた君主号を考案したのは、始皇帝自身で
ある。
「泰皇から皇を残し、上古の帝位の帝と組み合わせて『皇帝』
と呼ぶことにいたせ。また、朕を始めとして、以後は二世、三
世と千万世に至るまで、これを無窮に伝えよ」(本書391頁)
 始皇帝が「帝」号にこだわったのには、わけがある。
彼の曾祖父にあたる秦の昭襄王が「帝」号を名乗った先例があ
るのだ。
紀元前二八八年、昭襄王はみずから「西帝」と称し、秦と並ぶ
東の強国である斉の王を「東帝」と呼ぶことを提案した。帝は
「王」よりも格上の君主号である。斉王はこの提案を受け入れ
て「東帝」を名乗った。本書にも登場する縦横家の蘇代は、若
いころ、斉王と会見し、帝号を名乗って天下の諸侯の反感を買
う不利を説いた。斉王はその意見をいれ、もとどおり王号を名
乗ることにした。そのため秦の昭襄王も、しぶしぶ帝号をやめ
た。
 始皇帝が生まれる二十九年前、秦王は短期間とはいえ「帝」
を名乗り、天下統一を射程内に入れた。始皇帝が「帝」号にこ
だわった理由は、偉大な曾祖父への追慕の念にあったのかもし
れない。
 始皇帝や昭襄王よりも前に「帝」号を名乗った君主は、何人
かいる。
 殷王朝の最後の「帝辛(ていしん)」は、一般には後世のおく
り名である「紂王(ちゅうおう)」として知られている。古代蜀(
しょく)国の君主であった杜宇(とう)も、帝号を名乗った。伝
説によると、杜宇の霊魂はホトトギスという鳥になり「帰るに
しかず」と鳴いたという。この伝説にちなんで、日本語でも、
ホトトギスを漢字で「望帝」「蜀魂」「不如帰」などと書く。
 紂王や杜宇、昭襄王や始皇帝がこだわった「帝」号には、現
人神(あらひとがみ)のニュアンスがある。

 皇帝は、日本の天皇とも、西洋のエンペラーとも、中東のス
ルタンやカリフとも違う。
 例えば、古代ローマ帝国のエンペラーは、「皇帝」ではなか
った。行政・軍事上の重要な官職や権限がある一人の人物に集
中している状態が存在するだけだった。そのような人物は「イ
ンペラトル(最高司令官)」「アウグストゥス(尊厳者)」「カエ
サル(ユリウス・カエサルを継ぐ者)」「プリンケプス(筆頭市
民)」など、さまざまな称号を一身に兼ね備えていた。日本語
では便宜的に「皇帝」と呼ぶが、実は確信犯的な誤訳である。
 日本史でも、徳川家康とその後の歴代の後継者たちは「征夷
大将軍」「源氏長者」「日本国大君」など、行政・軍事上の権
限を集中的に兼任した。江戸時代、日本を訪れた西洋人は、徳
川将軍をエンペラーと呼んだ。逆にいえば、古代ローマ帝国の
エンペラーは、元老院から大権を授けられた「征夷大将軍」だ
った。
 皇帝は王より格上だが、エンペラーは必ずしもキングより格
上ではない。キング(およびクイーン)は貴族の血筋の最高位で
あり、エンペラーは統治者の最高位なので、そもそも比較の土
俵が違う。コルシカ島出身のナポレオンは、血筋からいってフ
ランスのキングにはなれなかったが、エンペラーにはなれた。
近代イギリスの国王は、植民地たるインドのエンペラーと、宗
主国たるイギリス本国のキングを兼任したが、むろん、本国の
キングのほうが植民地のエンペラーより格下だった訳ではない

 中東のカリフやスルタン、シャーも「皇帝」と訳されること
があるが、やはり中国の皇帝とは異質である。
 始皇帝の死後、わずか四年で秦帝国は滅んだ。しかし「一つ
の中国」「皇帝」という理念は生き残った。二十世紀の初め、
「末代皇帝」こと溥儀(ふぎ)が退位するまで、皇帝制は二千年
以上も続いた。皇帝という制度が消滅したあとも、「一つの中
国」や絶対的権力の一極集中という中華帝国の理念は、中国社
会を呪縛しつづけている。
「千万世に至るまで、これを無窮に伝えよ」という始皇帝の意
志は、ある意味では達成されたといえるかもしれない。

 始皇帝は世界史上、重要な人物であるが、彼を主人公にした
小説は意外に少ない。
 よほど筆力のある作家でないと、名前負けしてしまうのだ。
 始皇帝の事蹟については、司馬遷の『史記』始皇本紀に詳し
い。『史記』は漢文学の最高峰である。始皇帝を小説で書く作
家は、『史記』の完成度を意識せざるをえない。
 もっとも『史記』の記述も完璧ではない。例えば、司馬遷は
兵馬俑について一言も言及していない。そのため、一九七四年
に兵馬俑が地下から発掘されたとき、世界中が驚いた。『史記
』が書き漏らした歴史事実や秘話は他にも多いと思われる。
 塚本靑史氏は、司馬遷の『史記』の記述をふまえつつ、史実
の行間を小説の特権である想像力で補った。始皇帝の時代、歴
史のかげで墨家やソグド人が活躍していた、というのは小説的
な想像だが、史実としてもありうるリアルな設定である。
 また本作では、個々の人物描写も面白いが、それぞれの人物
の「理念」が描かれている点がすばらしい。
 本作に出てくる登場人物、例えば蘇代や韓非、始皇帝などは
、それぞれ自分の強固な理念をもっている。稀代の策士である
蘇代は、自分の謀略を成就するためには、自分の命すら犠牲に
することをいとわない。思想家の韓非も秦で無念の死を遂げる
が、彼の理念は秦の国家思想となり、秦の天下統一を成功させ
る原動力となった。
 始皇帝の「一つの中国」という理念も、前述のとおり、今日
に至るまで「中国」世界を支配し続けている。
 人間が生み出した理念や事物が、まるで独立した生き物のよ
うに立ち現れ、逆に人間を支配することを、社会科学の用語で
「疎外」という。歴史とは、壮大な疎外の物語である。始皇帝
も、蘇代も、韓非も、自分の理念に殉じ、破滅する。彼らの肉
体の死後も、その理念は怪物のようにしたたかに生き残り、新
たな歴史を作ってゆく。塚本氏は本作において、そのような歴
史のダイナミズムを見事に描ききっている。
 秦から漢初にかけての歴史を描いた塚本氏の小説は、どれも
傑作である。講談社文庫にも収められている塚本氏の名作『凱
歌の後(のち)』では、始皇帝の死因となった薬物の正体や、徐
福のその後の運命についても明かされている。本作は独立した
作品としても楽しめるが、塚本氏の他の小説とあわせて読むこ
とをおすすめする。