最近、Twitter(@katotoru1963)やmixiのほうに走ってるので、こちらのブログはご無沙汰にしている。
 
 今日、東京・お茶の水の湯島聖堂に行ってきた。
 きたる二月に刊行予定の拙著『本当は危険な論語』の出版にあたっての祈願――というより、孔夫子へのお詫びのためも兼ねて。
 湯島聖堂では毎年、一月一日に『論語』の「素読」を行っている。
 今年は郷党第十の全文だった。
 抜けるような青空のもと、孔子を祀る大成殿の石畳の広場の前で、一般の参加者に混じり『論語』の素読に参加した。朗々と声が響き渡った。江戸時代、さらにそれ以前から連綿と続く漢文訓読の伝統の流れに加わった、という実感をもった。
 素読の座席の一角の横に、本殿の参拝者の行列が並んでいた。見れば、若い人、女性の姿も目立った。
 湯島聖堂は史跡だが、遺跡ではない。今も生きている。儒教の聖地として。
 偶然、石川忠久先生にもお目にかかった。
 石川先生は、湯島聖堂の「公益財団法人斯文会」の長でいらっしゃるので、元日からいらっしゃっていたのだった。
 こっそり、素読をする群衆のすみっこに坐っていたのだが、慧眼な石川先生はごまかせず、見つかってしまった。
 素読が終わったあと、お部屋をたずねて、しばらく懇談した。
 
 本日、湯島聖堂に「初詣」をした感想を一言で述べると――
  『論語』について本を出すのが、怖くなった。
 
 十年どころか、百年早いような気がしてきた。
 
 とはいえ、もうゲラの校正の段階なので、今さら撤回するわけにもゆかない。
 
『論語』季子第十六にいわく
 孔子曰「君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言、小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言」。
 孔子曰く「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る」と。
 
 われ、郷原となることあたわず、あえて小人たらん。