三月十一日、地震が起きた瞬間、私は中野区の路上にいた。
ビルがかなり左右に揺れているのが見えた。あとでネットで見ると、中野区は震度5強、だった。
私が見た限りでは、どの民家も、ビルも、窓ガラスは一枚も割れていなかった。しかしあとでニュースを見たところ、中野区でも倒壊した家屋があった、ということである。
その後、報道で東北地方の被害の大きさを知り、愕然とした。
亡くなったかた、今も避難生活を送る人々の苦労を思うと、言葉もない。
筆者の勤務先でも、義援金・募金活動が始まっている。
1923年の関東大震災のあと「大地にしがみつく人間の必死の姿」を唱った演歌師がいた。
例年、大学の授業で彼の作品「復興節」を取り上げるのだが、今年は・・・つらすぎる。
http://bit.ly/eO1Mp2 (短縮URL)
添田知道著『演歌の明治大正史』(岩波新書、1963初版/1970第5刷)P.236-p.239より引用
「(前略)叔父の住んだ日暮里地区が焼けのこったことがわかってから、ともあれそこに戻ることにした。焼けあとの野天に、にわか商売のすいとん屋、うであずき屋が現れていたり、やがて道ばたの人だかりをのぞいてみると、震災被害の写真エハガキを売るのであったりするようになった。焼野原に焼けトタンの小屋もふえたが、新材のバラックも建ちはじめ、生皮つきの杉丸太が一本二円、トタン板一枚が三円だった。そうした材料を売る者もまだ自分のバラックなしの野天の商いだった。が、そんな灰燼の中の動きは、復興の意気というより、大地にしがみつく人間の必死の姿と映った。
そんなとき、本所で焼けて近くへ移ってきた演歌人が、震災の歌をつくってくれないかと相談にきた。(中略)ペラ八頁の唄本ができると、素早い演歌人たちがそれを抱えて各地方へとんだ。
(中略)
拙速の唄本が刷れて、私も糊口のこともあるので、近くへ演歌に出てみたときのことだ。日暮里の焼亡をのがれた地区とはいえ、夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。とある横丁でうたいはじめると、忽ち、暗い家々からとび出してきた人々にかこまれた。しかしそれは、不安とは逆な、熱心に聞き入る人々であった。勢い歌う方にも身が入る。大歓迎で、持って出た百部の唄本がすぐに売切れて、妙な拍子ぬけをした。
そして、どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、ということを知った。音。それは生命の律動。(中略)人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。そして疎末な唄本にとびついたことは、活字に飢えていたのでもあると考えられた。「復興節」はたちまち人々にうたわれた。そこで歌詞を追作し、印刷の間に合わないときはガリ版にもした。焼土風景の動きやバラック生活をうたったのだが、食料の配給(無料)の前には奥さんも嬶もなく一視同仁、生活の格差をなくした平等感に、一種の和みさえ感じられた。」
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