戦後70周年にむけての話題--
竹山道雄『ビルマの竪琴』は名作と言われるが、彼が本当は『雲南省の月琴』あるいは『山西の胡弓』のような作品を書きたかったことは、意外と知られていない(このタイトルは、筆者の妄想)。
竹山は、第二次大戦末期の中国の奥地を舞台に、日本兵と中国兵が、共通のなつかしい歌を歌うことで戦闘を回避する、という物語を考えた。しかし、残念なことに、中国文化にうとかった竹山は、ハタと困ってしまった。
「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです」...
と後に彼は書いているが、実は、共通の歌はたくさんあった。
「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです」...
と後に彼は書いているが、実は、共通の歌はたくさんあった。
例えば、日本の学校唱歌『旅愁』は、原曲はアメリカの曲だが、中国では李叔同の自由訳詞の『送別』(長亭送別)として有名である。
この他にも、日本人と中国人が共通して知っている歌は、いくつもある。
もし竹山が21世紀の人間であったら、ネットを適切なキーワードで検索するだけで、M大学のK教授による明清楽のHPも含めて、日中共通の歌曲の情報を簡単に得られたであろう。
しかし残念ながら、竹山は、中国文化に無知であった。
また、当時はインターネットなどという便利なものもなかった。
結局、彼はしかたなく、イギリス兵と日本兵がビルマで共通の歌を歌う、という物語を書いたのだった。
竹山は一度もビルマに行ったことがなかった。仏教に対する知識もなかった。
その結果、映画「ビルマの竪琴」を見たミャンマー人はあまりの荒唐無稽ぶりにびっくりするらしい(ビルマ=ミャンマーの仏教では、僧侶が楽器を弾くことはありえない、など、ミャンマー人の目から見るとこの映画は国辱的なミスがたくさんある、と言われる)。
もし竹山のまわりに、中国の音楽文化を知っている人がいて彼にアドバイスしてあげていたら、あるいは、日中戦争を舞台にした文学の傑作が生まれていたかもしれない。
(以下、http://hogetest.exblog.jp/4011267/ より引用。引用開始)
ビルマの竪琴については、作者の竹山自身が認めているように、原作者はまったくビルマを訪問したことがなかった。このことは、とくべつ秘されているはけではないが、意外と知られていない。
竹山にとって重要だったのは、日本兵と敵兵が共通の歌を歌うことによって、戦闘が回避されると言うシチュエーションだった。竹山は、最初、中国の奥地の県城を物語の舞台として設定しようとしたが、どう考えても、日本人と中国人が共通の歌を知っているという可能性は存在しなかった。そこで、いろいろと思案したあげく、イギリス兵との組み合わせなら、その可能性はあるだろうと考えるに至った。ビルマ戦線が物語の舞台として選ばれたのは、そのような条件が満たされる場所だったからだ。
「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです。共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。「庭の千草」や「ほたるの光」や「はにゅうの宿」でなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。」(竹山道雄「ビルマの竪琴ができるまで」『ビルマの竪琴』新潮文庫1959年、189頁)
(引用終了)
ビルマの竪琴については、作者の竹山自身が認めているように、原作者はまったくビルマを訪問したことがなかった。このことは、とくべつ秘されているはけではないが、意外と知られていない。
竹山にとって重要だったのは、日本兵と敵兵が共通の歌を歌うことによって、戦闘が回避されると言うシチュエーションだった。竹山は、最初、中国の奥地の県城を物語の舞台として設定しようとしたが、どう考えても、日本人と中国人が共通の歌を知っているという可能性は存在しなかった。そこで、いろいろと思案したあげく、イギリス兵との組み合わせなら、その可能性はあるだろうと考えるに至った。ビルマ戦線が物語の舞台として選ばれたのは、そのような条件が満たされる場所だったからだ。
「日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです。共通の歌は、われわれが子供のころからうたっていて、自分の国の歌だと思っているが、じつは外国の歌であるものでなくてはなりません。「庭の千草」や「ほたるの光」や「はにゅうの宿」でなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。」(竹山道雄「ビルマの竪琴ができるまで」『ビルマの竪琴』新潮文庫1959年、189頁)
(引用終了)
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