多宝山 成願寺。
 西暦1400年前後に、中野の地を開拓した「中野長者」こと鈴木九郎ゆかりの寺である。
 ある意味で「中野区の歴史の発祥の地」と呼んでもよいと思う。
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 古い寺だけあって、味のある石像が多い。

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 成願寺には「まんが日本昔ばなし」のような面白い伝説がある。
 親の因果が子に報い、強欲な中野長者の罪行のせいで罪のない娘が蛇に変身してしまい・・・・・・云々の物語だ。

 以下、中野区のホームページの中の「なかの物語 其の四 中野長者伝説を御存じですか?」より引用

 今は昔、応永の頃(1394~1427)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。
 さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。
 金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。
 しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。
 九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし・・・
(加藤注:上記の文中の「正歓寺」は、「正観寺」のことか? 「正観」は鈴木九郎の娘の法名。正観寺は、江戸時代に成願寺と改称し、今日に至る。)
 寺の中の説明板でも、上記の物語を絵で解説してあった。でも、今はその説明の絵と文の上に、白い紙にラフで、新しい説明がかぶせてある。愛娘が若死にしてしまいその供養のため、云々という、愛娘早逝供養譚である。
 近い将来、正式に差し替えられるのであろうか?
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 まなむすめが若死にして、悲しみにくれた中野長者が、自分の邸宅を寺にした・・・・・・という愛娘早逝供養譚は、リアルで美しい物語である。

 以下、成願寺のホームページの中の「歴史」から引用。
 こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。 
 
 しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
 九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。

 それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。

 数年前修復が施された成願寺のご開山さまのお像のなかから、古い小さな骨片がたくさん出てきました。これを東京大学名誉教授鈴木尚先生に鑑定していただいたところ、中年の男性とからだの弱い娘の骨ということがわかりました。鈴木九郎と夭折した小笹の遺骨にまちがいないでしょう。

 でも、迷信や欲望に満ちた龍蛇女子変身譚も、捨てがたい。
 中野の成願寺の蛇女伝説は、道成寺の安珍清姫伝説とか、中国・金山寺の白蛇伝などの龍蛇女子変身譚にも匹敵する、面白い物語であると思う。

 できれば、成願寺の縁起の解説として、今後も両論併記を希望する。