興味深い記述。自分の備忘用に。

西村雄一郎「(追悼・橋本忍)傑作『砂の器』と怪作『幻の湖』」
月刊『新潮45』2018年9月号、pp.100-105

p.102
「あれは人形浄瑠璃の『箱根霊験躄(ルビ いざりの)仇討』なんだよ。あの作品には、全山紅葉のシーンがあるし、雪も降る。文楽では右手に義太夫がいるが、これを刑事と見なす。つまり語りなんだ。三味線弾きは左にいて、これがコンサート会場。つまり音楽なんだ。舞台の真ん中では、書き割りを背景として、仇討をする夫婦の旅が描かれる。これが乞食の父子の旅なんだ。すべては同時進行。お客は好きな所を見ればいい。この形式を、いつか映画に使えるなと思っていたので、それを『砂の器』で使ってみたわけ。あれは文楽を面白がって見た一つの所産じゃないかな。」

p.104
 早速、黒澤邸に行くと、巨匠は、「君と野村君を引き合わせたのは僕だし、僕にも多少の責任があると思って、『砂の器』の脚本を読んだ」と言った。感想を尋ねると、「この本はメチャクチャだ」と一蹴された。
 理由を尋ねると、黒澤は、「シナリオの構成やテニヲハを心得ているお前にしては、最もお前らしくない本だ。冒頭に刑事は、東北へ行って何もしないで帰ってくる。映画ってのは直線距離で走るものだ。無駄なシーンを書いてはいけない。それに愛人が犯人の血の付いたシャツを刻んで、中央線の窓から飛ばす。そんなものはトイレにジャーッと流せばいいじゃないか」と言った。
「僕もそんなことは分ってる。多少の無理や無駄があっても、親子の旅までは遊びでいいんだ。そこからが勝負だと思ってる」と橋本は牽制する。黒澤からは「まだ時間があるから直せ」と言われたが、橋本は早々に退散しようとした。
 その時、黒澤は「これを野村君に渡しといてくれ」と一枚の紙を差し出した。そこには、演奏会シーンの絵コンテとカメラ位置までが書かれていた。このように撮れという演出の指示なのだ。「カメラは観客の目となって、一方向からしか撮ってはならない」というのが黒澤明の主張である。しかしそれだと、加藤剛の背中しか映らない。黒澤は自分のCM出演の時も、ディレクターの存在を無視して、自分で演出してしまう監督である。橋本の恐怖は、撮影現場に黒澤が来るのではないかということだった。
「浦和の埼玉会館大ホールです。」橋本はスタッフに撮影場所を聞いて、ほっとした。「だって、もし東京だったら、黒澤さんが撮影に来て、えらいことになっちゃうじゃないか(笑)。埼玉だから良かった」と橋本は苦笑する。
 『砂の器』は完成して、大ヒットした。それを見た黒澤は、何も言わなかった。(以下省略)