岡崎守恭『遊王 徳川家斉』文春新書
  定価:本体850円+税  発売日:2020年5月20日
  ISBN 978-4-16-661264-2

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612642

遊王 徳川家斉 (文春新書 1264)
岡崎 守恭
文藝春秋
2020-05-20



 「君臨すれども統治せず」をわきまえた明君か、無能で凡庸な暗君か。江戸時代の第11代将軍・徳川家斉(1773年-1841年)への評価は、今も難しい。
 本書は、歴史学者が論評を敬遠する家斉を正面から取り上げ、彼とその時代の全体像を浮き彫りにする。現代の日本にも通じる泰平の世の複雑怪奇な機微が、面白い。

 家斉は、日本史上の隠れた巨人だ。健康な体をもち、50年間もの長きにわたって将軍職にあった。江戸の町人文化がのびのびと開花した文化・文政時代を含む。家斉とその時代は、硬直化した幕政や、頻発する醜聞など、良くも悪くも、江戸時代の完成態だった。実際、家斉が死んだあと、わずか27年で明治維新を迎え、江戸時代は終わる。
 家斉は政治をかえりみず、子作りの「性事」(みなもと太郎氏の漫画『風雲児たち』の表現)に没頭した暗君とされる。彼がもうけた子供の数は一般に55人と言われるが、本書で解説されているように早逝や「内々御用」も含めると70人台だった可能性もある。
 しかし実際の家斉は、暗君とか明君とか、そんなナイーブな次元の存在ではない。生前の彼は、権威と安定のうえに君臨する「最強の将軍」だった。家斉が江戸から動かず、それなりのぜいたくな生活を送り、下々の者に「よきにはからえ」と放任するだけで「泰平の世」が保たれたのだ。
 泰平の世は、理想の時代ではない。事件や事故、腐敗や醜聞には事欠かなかった。庶民は生活苦にあえぎ、1837年には大塩平八郎の乱も起きた。
 だが家斉は、寛政の改革のような締め付けは行わなかった。放任主義だった。彼が理想とした政治は、いわば「バブリーな鼓腹撃壌の世」だった。シャンパンタワーでイメージされるトリクルダウン理論のさきがけ、でもあった。将軍たる家斉じしんが金銭を惜しまずに美食と美酒、美女を楽しめば、下々の者にもおのずから富がしたたり落ち、武士も百姓町人も「寛仁大度」に感服し、民は富み国は栄え、老若男女も幸せになる、と、家斉は本気で信じていたのだ。実際、彼は悪い人物ではなかった。ただし、その功罪については、二百年後の今も論議が続き、決着がでない。
 本物のリアルな社会、政治の現実とは、そういうものなのだ。

 著者の岡崎守恭さんは、異色の歴史エッセイストである。1951年に東京で生まれ、東大紛争で東大の入試が無かった年に早稲田大学に入学。早大を卒業後、日本経済新聞社に入社し、北京支局長や、政治部長、編集局長(大阪本社)など重職を歴任。記者時代は首相番として、歴代の首相に密着。田中角栄が病気で倒れる前に話をした最後の記者になった、とか、海部総理とブッシュ大統領の親近度を表す造語「ブッシュホン」を考案して1990年の流行語大賞を受賞したなど、挿話には事欠かない。
 現代の第一線の政治家や経済人、文化人とつきあい、社会の表と裏を知り尽くした岡崎さんが書く歴史の本には、独特の英気がある。
 普通の歴史学者が書く本は、現代の高みから過去をふりかえる。複雑な事柄を単純化して白黒をつけたがり、屁理屈めいた強引な「まとめ」をする。学者の悪い癖だ。私は末端の学者なので、自省をこめてあえて言う。自分が生きている今の社会では世間知らずだというコンプレックスを抱いている学者ほど、著作のなかでは背伸びをして、つい「俺は社会の全てを見通しているのだ」と偉そうな態度を取ってしまうのである。
 岡崎さんは違う。岡崎さんは「江戸学」の権威に敬意を払いつつも一線を画し、学者が論評を避ける家斉という巨人を正面からとりあげ、彼が生きた時代の全体像と周辺の複雑な人間模様を、複雑なまま、清濁あわせのんだ筆致で浮き彫りにする。その試みは成功している。

 本書を読み、不思議な既視感を感じた。岡崎さんのこの本は良質な歴史エッセイであり、現代の日本との比較本ではない。にもかかわらず、今の日本の空気と通じるものを感じてしまう。アベノミクスの不人気とか、新型コロナウイルス流行に対する政府の無策ぶりへの民衆の不満にもかかわらず、結果として日本は今のところロックダウンや医療崩壊の悲惨を回避し、奇妙な「泰平の世」が続いている。
 200年後の未来人が平成・令和の日本史をふりかえるとき、江戸時代の完成態は家斉の時代、「戦後」の完成態は令和初期、などと概括するのだろうか。
 家斉の時代は、その時代を生きていた庶民にとってはともかく、後世から振り返ると魅力的だ。相撲やお寺参り、植木ブームなど楽しいイベントが数多くあり、読み本や歌舞伎や浮世絵など後世に残る面白いコンテンツが大量に作られた。政治は一流でなかったし、政治家にはスキャンダルや問題が頻発した。にもかかわらず、いや、だからこそ、面白い時代になったのかもしれない。
 岡崎さんの本を読み、日本社会の機微と、江戸時代の奥深さに、ますます興味をもった。

2020/05/24